ポール・オースター『リヴァイアサン』の感想

 オースターの作品はいつも、人間の「ものごとから連関を見出す」という性質と、
それがもたらす現象について書いてある。
『リヴァイアサン』では、この性質によって、爆死にまで至った人物(ベンジャミン・サックス)と、
尋常な範囲に留まった人物(ピーター・エアロン)の対比がなされていて面白い。

タロットカードを引くとき、あらかじめ何か問いを立てて、それを尋ねる。
カードをひっくり返したら絵が出てくる。これが問いの答えである。
絵には塔とか死神が描いてあるが、これは本来、問いに対応したものではない。
問いと答え(カード)をつなぐストーリーは、タロットカードを引いた本人が瞬間的に作り出すもので、
そこには、ものごとから連関を見出す能力が働いている。
人間はこの性質の過剰によって占い(を解釈すること)を可能にしている。つまりこの過剰さによってすべての物語は作り出されている。
全ての人間は病気だ。

「我々はこの過剰さの中に生きている」という自覚に満ちているのがオースターの作品世界だと思う。
自覚があるから、語り手は滑稽さとロマンをいつも行ったり来たりすることになる。
世界には美しいものが存在していると確信している瞬間があり、それが全く馬鹿げたことだと知っている瞬間がある。
それは現象に対して選択的な読みが出来るという意味ではない。
カードが引っくり返された瞬間には、連関をつなぐ火花が勝手に散る。


この過剰さのために、若きサックスは『新コロッサス』が書けた。
同時に、その過剰さのために自らの身の破滅を招いた。
全ての人間は、この連関を見出す過剰さの病に冒されている。
そしてサックスのようにそれを人より濃く患っている人間もいる。

でも、そうでなければ、二人の男は雪の積もったニューヨークで出会うことはなかった。

「本屋に残されたサインの正体」という問いに対して、物語のラストでカードがひっくり返されたとき、
ピーター・エアロンがそこに意味を解することもなかっただろう。


“僕に会えなくて寂しかったからです

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